失敬。133は誤送信。

>>131
> 伊勢を今川の分国と解釈すると
 
「三十年後」大永四年(1524)も今川はそう思っていたかもしれない。
が、
他方の伊勢の動向を見ると少し無理がある。
 
大永二年九月付相模一宮社(寒川神社)棟札に於いて伊勢氏綱は自らを「相州太守」と表記。
大永三年六月付箱根権現社棟札に於いては遡って父伊勢宗瑞を「相州故太守」及び自らを「太守」と表記。
大永三年七月から九月の間に「北條」改苗。
大永四年正月から江戸領侵攻開始。
 
この時系列経緯を見ると氏綱は大永二年以後自家が何者の支配も受けない独立勢力であること、
即ちもはや今川派生勢力ではないことを周到に宣伝かつ既成事実化して行ったものと判断できる。
見方によってはこの時点で生じた今川伊勢間に於ける認識の乖離が河東一乱の遠因の一つと云えるかもしれない。