このスレでは作家論作品論的な考え方がスタンダードになのかな?
一概に悪いことではないと思うけど、プロフィールやら過去作やら作品外の情報で作品の先にある作者の人格像や思想というものを固定化をてしまうと解釈の可能性を狭めてしまうという欠点もある。

政治的な要素を含むものならプロパガンダといえば何でもプロパガンダになってしまうからこの言葉はあまり好きではないが、少なくとも皆が想像するような悪質なプロパガンダではないと思う。

農奴編のラスト(14巻)のトルフィンとクヌートの問答シーン。
クヌートは血と鉄で覇道を貫き、少数を殺して大勢を生かす道を選んだ。しかしその道を心から肯定できておらず、平和の実現という崇高な目的のために一部の人間を犠牲にすることの葛藤はスヴェン王の首の形を取って本人を苦しめている。
一方トルフィンは誰も殺さない、クヌートの手段では救えない人々を救えるような平和の国を、クヌートの権力の及ばないヴィンランドに築く道を選んだ。
犠牲を強いる覇道に後ろめたさを感じていたクヌートは、トルフィンの考えを聞いて吹っ切ることができた。
二人は共に平和を志す協働者として描かれてるし、自分と違う手段を否定していない。(トルフィンが農場の接収を辞めるように言ったのは「農場関係者に借りがある」という立場ゆえの発言でクヌートの手段の否定ではない)

クヌートとトルフィンそれぞれの歩む道を決して否定せずに提示することで、「これからトルフィンの志す平和への道を描くが、これは数ある選択のうちの一つであり他の道を否定するものではない」という、読者に対する「断わり」として機能していた(作者の思想・意図は別にして)とは考えられないだろうか。少なくとも俺はそう受け取ったし、だからこのスレに書いてあるような政治感・思想感に辟易せずに楽しんで読むことができた。

とはいえスレ民のように感じてしまう人がいるのも事実。
人によって感性は全然違うから、より多くの人が納得できる工夫というのは難しい問題だなあ。