>>256
その通り慶長の時の目的は焦土化だからね。
防衛の城は加藤への手紙にあったように海手に作る、現地を焦土化しているのに現地に防衛拠点を作る意味がない
本国からの輸送が容易な海岸線に作るのは当然。

それらの書状は実際に軍が移動にかかった時間なんだから当たり前
そして宇喜多らが実際漢城までいくのにかかった時間も五日であるから五日路ってこと
史料にあるとおり、半島南部に築城して明軍を迎え撃つ計画で動いている。
忠清道で戦う計画など最初からない。文禄の時からそのように動いている。

そして上でもいったように明が平壌で敗退して和睦の使者送っているんだから、
その指示が実行できなくなっただけ、朝鮮側は小西からの使者も拒絶しているのでそのまま攻略対象となった