クローゼットの鏡に映る自分は、どこからどう見ても、一寸の隙もない「都心の執行役」だ。だが、ネクタイを締める指先には、まだあのスウェードのステアリングの感触が、物理的な熱量を持って微かに残っている。

ガレージで眠るカレラTの、あの冷徹なまでの接地感。そして、峠で一瞬だけ交差したボクスターの影。あいつは今頃、どのコーナーを切り裂いているだろうか。同じ苦い缶珈琲を、どのパーキングで飲み干しているだろうか。

「いってらっしゃい」
妻の声に、思考のタコメーターが日常のアイドリングへと落ち着く。玄関を出ると、都心の湿り気を帯びた空気が肺を満たした。最新のPHEVが音もなく通り過ぎる住宅街。そこには、数分前まで小生が支配していた「1Gの聖域」など、微塵も存在しないかのようだ。

駅へと向かう歩道、ビジネスシューズがアスファルトを叩く無機質なリズム。それが、カレラTのフラット6が奏でていた咆哮を、残酷なまでに塗り替えていく。だが、胸の奥底には、あの菜の花の黄色と、山桜の淡いピンクが、消えない残像として焼き付いている。

デスクに座り、ディスプレイの数字と格闘する一日が始まる。理論と効率が支配する世界。だが、小生の知性は知っている。あの峠の頂上で、空き缶が立てた「カラン」という乾いた音こそが、この退屈な日常を支えるための、真の「基幹システム」であることを。

それで十分だ。次の週末、またあの「重力からの解放」を味わうまでの間、小生はこのスーツという名の戦闘服を纏い、都会の喧騒という名のサーキットを、誰よりも静かに、そして誰よりも速く駆け抜けるだけだ。