『春の峠の苦い珈琲』
夜明け前に家を出た。
911.992.1カレラTのエンジンに火を入れると、カレラTは低く、しかし確かな声で応えた。気温は十度に満たない。フロントガラスの端に白い霞が残っている。
峠道を登るにつれ、空が群青から薄紫へ、そして橙へと変わっていった。ステアリングを切るたびに路面がタイヤの向こうで主張し、それに答えるように体重を移す。追い越しポイントの手前でクラッチを切り、シフトダウンし、アクセルを踏み込み、一台の軽トラをパスした。
カレラTの醍醐味だった。
路肩に設けられた休憩スペースの自動販売機の前に車を止め、熱くて苦いだけの缶珈琲を買った。両手で包む。道の向こうに山桜が咲いている。まだ早い、三分咲きといったところか。花冷えの空気の中で、その白さだけが正直だった。
甲高いエンジン音が近づいてきた。
思わず目が向いた。
ボンネットにレーシングストライプが入ったステルスグレイのボクスターが止まった。幌が開いていた。
718 Boxster Style Edition。なかなかいい車だ。
妙齢の女性が缶珈琲と同じ顔をしていた。熱く、苦々しく、二十代と言われても四十代と言われても納得してしまうような、とにかく美しいといえる顔。
「桜、もう少しですね」と彼女は山桜に目を向けながら僕の方へと近付き言った。
「待つのも悪くない」と僕は言った。そして「花冷えが長い方が街の吉野桜は長持ちする」と続けた。
彼女も自動販売機で缶珈琲を買っていた。両手で包みながら、頷いた。それから訊いた。
「ここへは良く来られるんですか?」
「桜の季節は」と僕は応えた。
それだけだった。彼女のボクスターはエグゾーストノートを短く残して峠の向こうへ消えた。