最後に。

多分多くの読者が気づいていると思うが、「地動説」そのものは、この物語では話を作るためのネタでしかない。
作者が書きたいのはもともとが「「知の人・信念の人」対「既成の権力」」の話であって、地動説探求の話を上手くネタに使って(非常に上手く使って)その構図の話を作った、というところだ。

地動説についての話は最初から教科書的なアウトライン的な程度。作者自身が天文にもともと興味が無い人だろうことは作中に時折表れている。(もちろん非常に勉強して非常に巧妙に話を作ってはいる。)
そして、地動説自体の話は、ピャスト伯を説き伏せた(第21話:全62話の1/3時点)のを最後に、その後まったく出てこない。

第3章ではこちら側の人物たちシュミット・ドゥラカ・レヴァンドロフスキらは地動説主義者では全然なくて、彼らの相手も天動説かどうか関わりなく「C教」である。この構図は、最後「地動説は異端じゃなかった」とひっくり返しが起きても、全然そのままである。

「地動説」は作品に通底するメインテーマではなく、序盤で読者を惹きつけるためのネタでしかないのだ。

作品全体が「地動説対宗教」ではなく「「知の人・信念の人」対「既成の権力」」なのだとしたら…?

「現実の地動説は…コペルニクスは、ティコはケプラーはガリレオは…」という「地動説の正しさ」についてのこの批評は、作品にとって大して重要でない点を6万字使って一生懸命検討した、見当違いの一人相撲なのではないか…?