その極限的な状況のなかで積み重ねられてゆく内面の葛藤を通して、人は成長する。
偉大ともなるのである。はじめからの諦観者は、いわゆる犬儒派にすぎない。

玉吉の晩年の高弟たちが、玉吉の高い精神に容易に近づきえなかったのは、かれらが
亡命の漂泊の苦しみを知らず、はじめから順調に仕官して、社会的に尊敬される地位に
あったからであろう。

高い教養を持つかれらは、ノモス的な社会の指導者となった。ノモス的名社会にあるかぎり、
かれらは賤儒となり、犬儒派とならざるをえないのである。その一時の代表者が福満である。