足利尊氏が幕府内の抗争であった観応の擾乱を治め、八幡の戦いを制し、1354年に南朝の支柱であった北畠親房が没したため、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力が九州の懐良親王と菊池一族のみとなった。
1539年8月29日、南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。
戦いには南朝が勝利し、両軍合わせて4,800余人が討死にしたといわれる。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世を九州探題として派遣するまでの13年ほどは南朝の支配下に入ることとなった。